北村地域の最大の特性は、地形と川といえる。北村の地形は南が低く北は次第に傾斜が激しくなり、四つの渓谷が形成されている。川は渓流となり、道に沿って流れる。しがたって道の形は川の流れと同じく、自然と南北に延びている。それは今日も重要な道として機能している北村のサムチョンドンギル、カフェドンギル、ケドンギル、ウォンソドンギルなどを見ても明らかである。
漢陽(ハニャン)の中心、景福宮と昌徳宮との間にあり、北岳(プガク)と鷹峰(ウンボン)を結ぶ尾根の南の斜面に位置していて、地理的に優れた環境に囲まれている北村は、昔から権門の居住地として人気が高かった。1906年の戸籍資料によると、北村全体の人口10,241(1,932戸)のうち、戸主の身分による区分で言うと、両班と官僚が43.6%を占めている。このことからも権門の居住地として、両班と官僚の住宅が中心となっていた地域であることが分かる。
権門の居住地としての北村の地位は、文明開化期と日帝時代にも続き、朴泳孝(パク・ヨンヒョ)や金玉均(キム・オッキュン)などの開化派、閔大植(ミン・デシク)(閔泳徽(ミン・ヨンフィ)の子息)などの驪興(ヨフン)・閔(ミン)氏勢力の人が北村に多く住んでいた。また、日帝時代、多くの独立運動家が住んだ場所でもある。日帝時代、都市に人口が集中する現象がソウルの住宅難を生じさせ、これにより、「区画型開発」を民間が推し進めるきっかけとなった。住宅の売買から差益を得ようとする会社が多く登場し、1912年以降、住宅難で中・大型の土地を分割し、従来とは異なる韓屋が急速に建設された。現在、北村を代表する韓屋密集地域である嘉会洞31番地、11番地、三清洞35番地一帯はすべてその時期、不動産業者によって多く建てられた韓屋であり、大掛かりで建設した後、分譲する方法で供給された。この時期建てられた韓屋には、ガラスやタイルなど、それ以前にはなかった建材が用いられ、平面はある程度標準化され、街路のシステムと同時に設計されたという点が従来の韓屋とは異なる。
このような韓屋の居住地は、解放後の1960年代初めまで、建設が続けられた。学校や公共施設として残ったいくつかの大型の敷地を除き、ほぼ全地域が韓屋で埋め尽くされた。
1960年代後半から1970年代前半にわたって行われた永東(ヨンドン)地区開発事業を皮切りに本格的な江南(カンナム)開発が行われた。これにより江北(カンブク)の人口が江南へと大勢移動したことに伴い、江北地域の学校も江南地域へと移転された。1976年に京畿(キョンギ)高校が移転すると、その建物は正読(チョンドク)図書館となった。1978年に徽文(フィムン)高校が移転したことで、1983年にはその場所に15階建てのヒュンダイ建設の社屋が新築された。また、昌徳(チャンドク)女子高校が1989年に移転した後は、憲法裁判所が建てられた。学校が移転することで新築された大規模施設は、北村地域の景観を大きく変えるきっかけとなった。
1980年代の硬直化した韓屋の保存政策、プクチョンギルの開設
学校の移転により地域開発が進められる中で、韓屋保存の必要性が謳われた。1976年、「民俗景観地域」指定を巡る議論の後、1983年に「第4種美観地区」指定により本格的な韓屋保存政策が施行された。しかし、この時期の韓屋保存政策は地元住民との話し合いや合意がない状態で、行政側が一方的に推し進め、韓屋を文化財のように厳格に規制する方法でなった。また、プクチョンロを拡張・舗装する過程で、多くの韓屋を撤去するなど、行政運営のダブルスタンダードを批判する声が広まった。
1990年代の韓屋滅失、「多世帯住宅」の建設の盛況
地元住民による建築基準緩和への要求を受け入れ、ソウル市は1991年5月、住宅の場合、1階までと規制していた建物の高さを10メートル以下(または3階以下)に緩和した。これをきっかけに「多世帯住宅」の新築が本格的に行われた。その後、1994年には景福宮周辺の10メートル高度制限を16メートルまで緩和し、最大5階までの建築が認められた。苑西洞(ウォンソドン)をはじめとする北村全域で韓屋が撤去され、「多世帯住宅」の建設が増えたことにより、北村の景観が急速に損傷を受けるようになった。
急速に進められる韓屋の滅失と「多世帯住宅」の新築により北村の景観が変わり、住い環境も悪化していった。1999年、地元住民による「社団法人・鍾路(チョンノ)北村づくりの会」の要求により、ソウル研究院、地元住民、専門家、ソウル特別市は、力を合わせて北村づくり政策を樹立した。北村の保全と管理のために、従来の一方的な規制ではなく、住民自らの意思に基づく韓屋登録制をベースに、現代的なライフスタイルに合わせると同時に、韓屋固有の美を保つことができるよう、韓屋の修理を誘導し、支援・管理することに努めた。これは地元住民の積極的な参加と活動により、地域の環境改善と住い環境としての魅力を高めるという「北村づくりの方向性」を示したもので、2001年より本格的に取り組まれ、今日に至っている。